回顧

東京バックホーンカラオケ~THE BACK HORNの思い出~

前回の続き、THE BACK HORNは上京してからも私の人生に深く関わってきました。

上京前のTHE BACK HORN との出会いはこちら↓

 

2007年7月、私は念願の上京を果たします。本当は18歳で故郷を飛び出す予定でしたので、実に6年遅れの上京でした。

そんなに時間がかかったのも、大学時代の無気力さや、持って生まれた慎重さからでしょう。

そうでなければ、取り合えずフリーター、東京に行けばなんとかなる、そんな感じでもっと早く脱北していたと思います。

私は正社員の仕事を見つけてから、上京しました。

 

 

特段やりたい仕事ではなく、ノルマもあるし、長くは続けられないだろう。

でも、多様な選択肢がある中で、やりたい仕事を見つけられればいい。

まずは、東京を楽しもう。そんなスタンスでした。

 

とにかくライブハウスに足を運びました。観光がてら、高崎や宇都宮まで行くこともありました。

タワーレコードへ行って、そこで初めて知ったバンドのCDを買ったりもしました。

あの、無気力な大学時代に感じた、「自分はこの世界の住人になりたい」という願望が現実になったのです。

 

 

しかしバックホーンからは徐々に離れていきました。

6th「THE BACK HORN」バンド名をアルバムタイトルに持ってきたこの作品は、私がかつて感じた衝撃とは程遠いものでした。

5thで変わったのは「たまたま」だと信じていましたが、確実な方向転換だと感じたのです。

しかし、自分が救われた、影響を受けたのは紛れもない事実。初期のバックホーンが1番。そう位置付けていくことにしました。

 

東京に来てやりたかったことは、決してライブ鑑賞だけでなく、沢山ありました。その一つがカラオケオフに参加したいということでした。

歌うのは元々好きですし、一つのアーティストの曲を延々と歌い続ける会なら、気兼ねなく好きな曲が歌えます。加えて同じ趣味の仲間もできるわけです。

しかし、ファンが少ないアーティストほど、人口密度が低い土地ほど、開催するのは困難になります。

東京なら、マイノリティーが集う会も開催できると思いました。

 

 

まずはラルクのカラオケオフに参加してみました。

当時、右肩上がりで会員数を伸ばしていたmixiのオフは異様な大人数で気が引けたので、2chで細々とやっているオフに参加したのです。

新宿で2回、参加しました。

2回めの幹事さんが若い女性で、なんだか愛想もよくなく淡々とした感じだったので、「うん、カラオケオフの幹事くらいなら、オレみたいな人間でもできそうだな。」

と自分で開催することを決意します。

 

 

ACIDMANをはじめ、どのアーティストの会にするか、色々考えましたが、最も自分が歌いやすいバックホーンのカラオケオフを開催することにしました。

この時はバックホーンから離れていたので、その程度の思いだったのです。

会の名前は「東京バックホーンカラオケ」

「バクカラ」と略した名前にするのは避けたかったのと、地方出身者として「地名の冠がない=東京」というのは東京人の傲慢さだと思っていたからです。

例えば大阪でやるのなら、「大阪」「関西」などの冠を当たり前のように入れますよね。だから「東京」という地名を入れました。

 

mixiの力はすごかった・・。

まだまだ知名度が低かった2008年3月、自分を含め7人が新宿コマ劇場(当時)付近に集まりました。

 

 

とにかくひたすら、バックホーンだけを5時間歌い続けました。

ほとんど曲かぶりはありませんでした。カラオケの鉄人の曲数のおかげもありますが、ほとんどがコアなファンだからでしょう。

ちょっと口に出すのははばかられるようなワードの多い曲なども、女性が当たり前のように歌っていました。

心の闇が爆発している、心地よい空間でした。

 

3か月後、2回目の開催ではなんと17人もの人が集まりました。中には水戸や名古屋からやってきた猛者まで。

アルタ裏の歌うんだ村で、2部屋に分かれて、やっぱり5時間バックホーンだけを歌い続けました。

 

以後、mixiの隆盛とともに、この人数が当たり前になりました。

時には静岡から、長野から。遠方からの参加者も珍しくはない状態となっていくのです。

 

参加者の歌声や反応、そして8th「パルス」が少し昔に戻ったような曲調だったため、私自身のバックホーンへの強い思いも復活することとなりました。

カップリングの曲なども渋谷のTSUTAYAで漁りました。

 

ほとんどの参加者が私に対して感謝の言葉を発し、楽しかったと言ってくれる。承認欲求は満たされていました。

 

2次会の開催もデフォとなり、参加者同士のmixi上での交流も活発になっていく中、自分は参加者からどう思われているのかと、少し気になるようになりました。

バックホーンが歌えりゃ取り合えず満足、ではなくなってきたのです。

また、SNSの闇と言いますか、自分の知らないところで参加者同士が集まっているということに気付いてしまうということも増えてきました。

 

それでも当時はそれほど深刻には考えていませんでした。

7回目の開催のあと、私は幹事を一時休みます。仕事の側で、目標が出来たのです。ノルマ地獄、接客地獄を抜け出すために、難関資格を取ることに決めたのです。

年に1度の国家試験で、合格率は7%前後。資格予備校にも通っていました。試験前2か月くらいは、バクカラなんてやっている場合じゃないと思ったのです。

 

 

結局その年は不合格となり、落胆はしましたが、再び東京バクカラを開催。9回目、10回目と回数を重ねていきました。

試験が近くなると、別の人に幹事をやってもらったりもしました。

このあたりから、次第に会から離れたところで、参加者と交流したい。リアルを充実させたいと思うようになります。

普通のカラオケを楽しんだり、ちょっとした飲み会を開いたりしました。

2010年の年末にはオールスター感謝祭と銘打って、部屋を貸し切りバックホーンのDVDを上映する中で、飲んで歌っての宴会を開きました。

30人近い参加者が集まりました。

東京バクカラの集合時に「バックホーンの集まりなんですか??」と声をかけてきたのがその店の店員さんだった、というエピソードもあります。

バックホーンのTシャツを着て参加する人も多かったので、わかる人にはわかったんだと思います。

いつもはうざったいお店の勧誘ですが、それがなければその宴会は生まれませんでした。

以後、店が変わることもありましたが、この感謝祭は恒例となりました。

 

この頃が一番の最盛期だったのだと思います。

参加者も集まりすぎて、泣く泣くお断りしたこともあります。

 

仕事は相変わらず嫌で嫌で仕方なくて、でも目指した試験には落ち続けて。先が全く見えない。暗中模索、五里霧中。

それでも東京に来たことに後悔が全くなかったのは、イベントを開催して、地方では弾かれてしまうような個性の強い人達と交流して、

「東京」という土地を存分に生かした「面白さ」を創り出せていたからだと思います。

絶対に合格して、現状を打破してやると、何度も立ち上がることができました。

かつてのようにバックホーンの楽曲が直接救ってくれたわけではないですが、また違ったかたちで、自分にとって重要な存在となっていたのでした。

 

最盛期。回を重ねるうちに、違和感が強まっていく時期でもありました。

参加者の意識が、「どうしてもバックホーンが歌いたい!」という衝動ではなく、「仲間とワイワイしたい」「○○さんが行くなら私も行く(行かない)」という傾向が強まってきたのです。

そんな状態にだんだんと嫌気がさしてきました。

また、初期の頃から気になっていた「派閥」の存在が力を強めていき、新規の参加者を刈り取っていくということが顕著になります。

自分の知らないところでの会合が、バシバシとSNSにアップされていきます。

東京バクカラは、毎回のように参加する人と、初めての参加者しか集まらなくなってしまいました。

 

さらにその嫌気を増幅させたのが「カップルの量産」です。

参加者の増大や盛り上がりは、mixiがいわゆる「リア充」を大量にネットの世界に呼び込んだおかげでもあります。

しかし彼らは「リア充」ゆえ、当たり前のように恋愛をします。

急速に東京バクカラは合コン化していきました。

 

 

嫌悪感がありながらも、私自身も恋愛をします。フラれたことも、付き合ったこともあります。

合コンじゃねーんだ!と言いつつ、自分もコンパしていたのです。

今思うと、やはり私は「リア充」になりたかったのだと思います。オフ会の主催者として「ネットの世界」では充実していましたが、それだけでは満足できなくなったのです。

バーベキューをしたり、宅飲みしたり、そういうことをやり始めたのも、「リアル」へと移行したかったのでしょう。

自分自身がリアルへ移行し始めていたこともあり、嫌悪感がありつつも、心の奥へ押し込んでいたような気がします。

 

海やら、小旅行やらへとコソコソ出かける「派閥の人達」にはかなわなくとも、「いやオレはもうリア充なんじゃないか」とすら感じていました。

 

2011年11月3日、19回目の東京バクカラを最後に主催者を降ります。

参加者から衝動を感じられなくなったことの虚しさを払拭できなかったのです。開催のモチベーションが完全になくなっていました。

それと同時に、「主催者」でなくなった自分でも、周囲は仲間として扱ってくれるだろうという慢心がありました。

最初はほぼその通り。しかし、別の参加者が引き継いで「バクカラ」を開催し続け始めると、完全に蚊帳の外へと移行し始めます。

カップルの量産化にも拍車がかかります。真のリア充しかいなくなります。

 

それまでは、たとえリア充であっても、どこか心の闇を抱えていた人達でした。それが、どこからどうみてもリア充な人達の集団へと変貌を遂げるのです。

バックホーンの一般化がすすみ、楽曲から心の闇が感じられなくなっていたのですから、ファンが変わるのは至極当然の成り行きなのかもしれません。

 

その「新しい方々」と何度か交流する機会もありました。

しかし、あまりにも違う人達と、当たり前のように会う関係にはなりませんでした。

初期の頃からそれなりに仲良くしていた人達も、そちらに吸収されていきました。

 

ーネットにリアルが流入した今、ネットの世界はリアル世界と何も変わらないー

 

ようやく気付きました。

 

今のバックホーンは、自分を救ってくれる存在ではないのかもしれない。

 

2012年、4回めの挑戦で試験に合格。その後、精神的にまいってしまい、資格を活かした転職を決意。なりたかった仕事、専門職の人間になりました。

初心はすぐに忘れ去られ、慣れない仕事に忙殺される日々。

バックホーンは更に遠い存在となっていきます。

「東京バクカラ」の人々、「新しいバクカラの人々」と、細々と交流することもありましたが、主催者でない自分はイレギュラーな存在でした。

ラインで、フェイスブックで、SNSを使いどんどん仲間意識を高めていきます。

SNSってそういうものだったっけ?

一時代を築いたmixiは衰退し、時代遅れのものとなりました。

 

慣れない環境に、燃え尽き症候群も重なり、「あの」大学生の時のような無気力感、虚無感と戦う日々がやってきます。

まさか、あの感覚が、10年の時を経て襲ってくるとは思いませんでした。

 

バックホーンはどんどん普通のバンドになっていき、新しいアルバムをチェックする気にもなれません。

とうとうロックへの興味も失せ、ライブにも行かなくなります。

「小室ファミリーで充分」とか言い出し、ナツメロを聞いて昔を懐かしむ「典型的なおじさん」になってしまいました。

 

東京バクカラをやめてからも、感謝祭は続けていましたが、参加者は年々減り続け、2015年末は開催を告知しても反応がほぼゼロ。

ちゃんとした参加希望は2人だけとなり、開催は見送りました。

 

私はリア充を目指すあまり、ネット充も失ってしまいました。

 

 

「エイシンさん(注:当時のネット上の私の名前)のおかげで一生の仲間と出会えました!」

 

ーオレはその仲間には入っていないのねー

 

「この前、バクカラのみんなで集まりまして~」

 

ーオレは「バクカラのみんな」に入っていないのねー

 

それでもいいじゃないか。主催者としてしか価値がなくっても。

「バックホーンを自分が歌いたいから始めたんじゃなかったのか?」

 

2015年11月3日。最後の主催から丁度4年ぶりに、東京バクカラを開催しました。

よくわかりませんが、そういう気持ちになりました。

シャッター街と化したmixiでどれだけ集まるか不安でしたが、13人集まりました。

告知して、参加者に連絡して、メンバー表を作って。

カラオケ店の前で待機して。

ああ、これだ、この感じ!すごい懐かしい!

 

無気力さが少し解消され、ロックへの興味も復活してきました。

 

バックホーンが好きだ。

 

やっぱりオレはこれが楽しいのかな。

東京バクカラに限らず、カラオケで好きな歌が歌えればそれでいいんじゃないの。

 

初心に戻ろう。

前述の感謝祭で人がほとんど集まらなかったことで、更にそう思いました。

 

東京バックホーンカラオケとは一体何だったのか。

 

自分の存在意義や人間関係に悩み、葛藤し、時には恋愛もし、

ちょっと恥ずかしいですが、これって青春って奴なんじゃないの、と今となっては思うのです。

私は学生時代にそういったものは一切経験しませんでした。部活動なども一切やっていませんでした。
だから尚更そう思いました。

20代半ばから後半にかけて、遅い青春をTHE BACK HORN が与えてくれたのかもしれません。

初心というものは、大切ですね。

(2016年1月)

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コメント

    • なつかしい
    • 2018年 4月 24日

    2.3度参加しました!
    あの時は楽しかった!!

    • なつかしい
    • 2018年 4月 24日

    ありがとうございます!

    • ゆっぽこ
    • 2018年 4月 25日

    あの時は楽しかった。
    そんな状況になっていたとは…
    また叫びたいぜ!

      • kiri_AC
      • 2018年 4月 28日

      コメントありがとう!
      君のことは覚えているよ。確か会社の研修か何かでたまたま東京に滞在中とのことだった記憶。
      楽しかった記憶として残っているなら、開催した甲斐があるというものです。

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